「このウイスキー、りんごっぽい」——そう感じたとき、グラスの中には本当にりんごの成分が入っています。ただし果物由来ではなく、製造中に生まれた化学物質として。ウイスキーのフルーティな香りを担う一族、エステルの正体に迫る、香りの化学シリーズの第一章です。
01 代表的なエステルと果物
具体的に見ましょう。酢酸イソアミルはバナナや洋梨、カプロン酸エチルは青りんごやパイナップル、酢酸エチルは(適量なら)フルーティだが過剰だと接着剤様——など、代表的なエステルにはそれぞれ得意な香りがあります。ウイスキーの華やかさは、これらが複雑に混ざり合った総合効果。スペイサイドのフルーティなモルトは、このエステル類が豊かなのです。逆に言えば、「フルーティな一本」とは「エステルが上手に生成・保持された一本」ということです。
02 どの工程で生まれるのか
エステルは主に発酵中に酵母が生成します(酵母の記事参照)。長い発酵はエステルを増やし、蒸溜のカット(どの部分を製品に使うか)でエステルの量が決まる——軽い前半にエステルは多く含まれるため、カットのタイミングが香りを左右します。さらに熟成中にも、樽の中で新たなエステルが生成・変化します。つまりフルーティさは、発酵・蒸溜・熟成の三工程すべての産物。一つの香りの裏に、これだけの工程の協働があるのです。
03 飲み手の視点
この知識で、テイスティングが少し科学的になります。「りんご」を感じたら、それはカプロン酸エチルかもしれない——そう思うと、香りに名前と出どころが与えられ、記憶に残りやすくなります。もちろん飲むときに化学式を思い浮かべる必要はありませんが、「果物を使っていないのに果物が香る」不思議の答えを知っておくと、一杯の奥行きが変わります。ウイスキーの華やかさは、目に見えない分子たちの、精巧な合唱なのです。